摂理

 私の実家は、三重県松阪市から西に20km行った山と川に囲まれた所です。戦後はサトウキビから砂糖を製造する工場と、瀬戸物のパッキングとして使う木毛(木を素麺状にしたもの)を作る工場を経営していました。それらの工場の脇に線香の粉を作る工場がありました。線香は杉の葉を細かく切り、臼と杵でパウダ-状にします。臼と杵は21個、一列に並んでいて、オルゴ-ル式に軸が回転して、餅つきのように杉の葉を砕いていきます。軸を回す動力は水車です。ゆっくりと1昼夜動かすために、モ-タ-では減速できず経費もかかるからです。水路を引いて水車で回す方が、効率が良いのです。水車は直径7mあり、1定の速さに水量を調整します。ほぼ無人で粉になります。水車の周りには水を求めて、小動物が集まってきます。私が中学の時でした。兄から「臼の具合を見てこい」と言われ、工場の階段を下りると、くちなわ(方言でヘビ)の尻尾が見えていました。以前から住み付いている青大将でしょう。1m以上の青大将の胴体は動かないのに、尻尾が微かに動いています。死んではいない。くちなわの前の方を恐る恐る覗くと、青大将は顎が外れるほど口を大きく開けて、ちょうどヒキガエルを飲み込んだところでした。ヒキガエルは拳2個ぐらいある大きなカエルです。青大将の口からまだヒキガエルの後ろ足2本が見え、動いています。カエルはまだ生きている。青大将はゆっくり、ゆっくり、カエルを口の中に入れて行きます。時間がどれほど経過したか覚えていませんが、顎が外れた口は、元の小さな口に戻り、飲み込んだカエルのコブは、少しずつ腹の方に進んで行きました。コブがヘビの長さの半分程に移動すると、くちなわは動き始めました。その時は、ヒキガエルが哀れで、助ける事ができなかった自分を責めたものです。くちなわは、残酷で恐ろしい生き物だと思いました。同じように、くちなわが鶏の卵を飲み込み、高い所から落ちて、飲み込んだ卵を腹の中で割る光景も、私の記憶の中に色あせることなく残っています。

 時は過ぎ、今年の1月4日の毎日新聞で、斎藤茂吉さんの『石亀の生める卵をくちなわが待ちわびながら呑むとこそ聞け』という短歌を目にしました。歌の意味も掲載されていたので引用させてもらいます。「石亀が卵を産むのを、地中にいて、蛇が今か今かと待っている。その卵を飲み込むためである、と聞いた事があった。」石亀は夏に、地中8cmの穴を掘り10個位産卵します。その卵を狙って、くちなわが地面の中で待っている。「待ちわびながら」と恍惚とした表現ですが、命のやり取りです。石亀がかわいそうだという同情も、蛇は酷いという倫理もありません。中学生の時は、かえるに同情し、蛇に反感を覚えましたが、ここには食物連鎖として簡単に済まされない、命のやり取りが目の前で行われていました。生きていくエネルギーを充足することは、自然界の摂理です。斎藤茂吉さんも、自然の摂理を感じてこの歌が出来たのでしょう。

 この宇宙に生きるものは、ひとつの環のようにつながっています。食べるとか、食べられるとかいう関係ととらえるのでなく、すべてが1体化しています。しかし、企業もある意味、生き物ですが、自然の摂理には当てはまりません。経営者の経営方針、行動、姿勢で、食われるか、食って進んで行けるか、が決まります。時代に合っているか、時間を有効に使っているか、上げればきりがないのですが、食われれば可哀そうだとか、食ったものを憎むとかの倫理もありません。経営者は誰もがなれる職業ではありません。ごく1握りの選ばれた者でないと。上に立つ者も選ばれた者です。

 24節気の啓蟄は3月6日です。大地が暖まり、冬眠をしていた虫が穴から出てくるころです。これから自然界の摂理が繰り広げられる事でしょう。来月は年度の始まり、5月は新元号になります。

 企業の摂理は経営者の立ち位置にあります。(典)

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