野球シ-ズンに入り、其々のヒイキのチームの勝敗が気になる季節になりました。5月5日の子供の日には2人の野球人が国民栄誉賞を受け、東京ド-ムで式典が催されました。当日の主人公より背番号96の方が目立っていました。私には、何故二人同時で、何故今なのか、という疑問があります。反対しているのではありません。長嶋さんも松井さんも国民栄誉賞を貰っても良い活躍と感動を与えてくれたと思います。しかし、過去の野球人にはもっともっと凄い方がいます。日本のプロ野球史上屈指の強打者で、これからも決して破れない通算安打3085本を打った張本勲氏や、弱小チ-ムの大黒柱として400勝をした金田正一氏には、何故国民栄誉賞の声が掛からないのでしょうか?金田さんの場合多くの記録(18歳でノ-ヒットノ-ラン等)があり、強豪チ-ムをねじ伏せ、長嶋との対戦にも色々の逸話が残っています。金田氏に引退を勧めたのは石原慎太郎氏でした。「もう400勝を区切りに身を引くべきだ」「まだ俺は投げられる」「誰もあんたが打たれる姿を観たくない。なぜならあんたは金田だから」これは男の会話であり、胸を打つ会話です。背番号96番の方にも石原氏の様なコメントが欲しかったですね。政治力のイベントでなく。
野球は日本を代表する俳人・歌人・国語研究家である正岡子規が名付けたと聞いた事があります。正岡子規は生まれた時は名前が処乃助(とこのすけ)。5歳の時に升(のぼる)と改名します。この「の・ボ-ル」が野球と当て字になったとラジオで永六輔氏が言っていました。子規は熱心な野球選手で、ポジションはキャッチャ-でした。数々の野球用語を翻訳した功績を認められ、2002年に野球殿堂入りを果たしています。
昨年から3名の選手が野球殿堂入りの条件と言われている2000本安打を達成しました。その一人が宮本慎也選手です。彼は、守備要員としてヤクルトに入りました。野村克也監督からは攻められない、守るだけの「自衛隊」と呼ばれていました。元々守備要員の選手だからバッティングは期待されていませんでした。その選手がどうして2000本安打を達成できたのでしょうか。当時ヤクルトの打撃コ-チだった伊勢コ-チは「野村監督のミーティングで、打撃の話になると宮本は身を乗り出してノ-トをとっていた」と話していました。また遠征先でも門限にはホテルに帰り、部屋でバットを振る習慣は新人時代から続けていたそうです。本人は17年目で「やっとヒットを打つコツが分かった。構えた時カチッとはまる感覚が。練習は裏切らないですね」と言っています。
今年になって5月5日に中村紀洋内野手が2000本安打を達成しました。92・93年に打撃コ-チから外出禁止令を出され、特訓を受けます。毎日手袋をつけて素振りをしますが、血豆が潰れ痛くて手袋が脱げない、手袋を脱ぐと痛くて眠れない、そのため手袋を付けたまま眠り、翌朝血が固まってから手袋を脱ぎ、夕方からまた同じ事を繰り返しました。この練習は裏切りませんでした。99年に二冠王(本塁打王・打点王)を取り、シドニ-五輪に出場、そしてパリ-グの日本人最高年俸を取りました。最後に谷繁元信選手は5月6日に史上44人目の2000本安打を達成しました。谷繁は89年にベイスタ-ズに入団して、一年目から活躍しましたが、当時リリーフエースの佐々木主浩投手が登板した際は代えられていました。佐々木のフォークボールは天下一品で、落差が大きくてワンバウンドでも打者はバットを振ってしまう程でした。佐々木投手の球が捕球できず、上手な捕手に代えられる屈辱を味わい、体中にあざを作るほど練習を積み重ねました。2000本安打は試合に出場しないと達成できません。これも練習は裏切らない結果でしょう。
他にも野球には「練習は裏切らない」伝説は山ほどあります。毎年シ-ズンオフになるとスポ-ツ新聞で惜別選手名が掲載されます。ドラフト一位の選手が5年で引退し、逆に入団10年目でようやく花の咲く選手がいます。練習は裏切らない。我々に良い教訓を与えてくれます。ありがとう!
今年も伊藤育英会を開催します。詳細は昨年通りです。6月30日締切。7月15日発表。(典)