今年のGWに本田宗一郎の本を片っ端から読みました。きっかけは新聞の「ホンダイズム空を駆ける」という記事です。5月2、3日の両日、ホンダジェットが岡山県の岡南飛行場で一般公開され、本田宗一郎の夢が咲く、という内容でした。
1958年(昭和33年)本田宗一郎52歳、専務藤沢武夫48歳の時です。歴史上大成功を収めた経営者には優れた補佐役がいます。松下幸之助に高橋荒太郎、豊田喜一郎に石田退三がいたように、宗一郎と藤沢の盟友関係は、ホンダの発展を語るには絶対に外せないファクタ-であります。二人は「スーパーカブ」の大ヒットで新たな工場用地を探す必要性に迫られ、候補地4ヶ所の視察に出かけました。最初に訪れたのが愛知県のある市でした。2人は度肝を抜かれました。昼間から酒席をセッティングされ、土地の芸者まで揃えて歓待されたのです。当時の知事や市長から「いきなり工場の話もなんですから、ま、ひとつ・・」肝心の要件を後回しにされて、あきれた二人は早々に退散しました。次に、宗一郎と藤沢は三重県の鈴鹿市に向かいました。市役所の会議室に通された二人は、愛知県の市とは正反対の鈴鹿市の対応に、違う意味で度肝を抜かれました。テーブルの上には3枚の地図が用意されていました。1枚は三重県の、1枚は鈴鹿市の、もう一枚は鈴鹿市が用意した工場用地の地図でした。用紙には市の概況と交通、気候、風向きまで、各種の資料をもとに整然と説明されていました。またホンダが鈴鹿市に工場を建設した時、市が出来る事、市がホンダと一緒にできる事を市長は説明したのです。約2時間の説明に2人に出されたのは渋茶一杯です。説明が終わると市長は2人に長靴を渡し、3台の車で現地見学に誘いました。現地に着き市長が大きな声で合図をすると、白い旗が4隅に上がりました。「あの旗から、あの旗まで200m、10万坪あります。当市の責任で用意できます。」工場に必要な水路は白線で引かれ、今すぐにも工場が建設できる様でした。合理的で無駄の無い鈴鹿市のプレゼンテ-ションに宗一郎は即決しました。歴史的な経営者は決断が速い。残りの候補地はキャンセルしました。帰りの車の中で宗一郎は専務の藤沢に「自信のない市や町にかぎって、土地の案内より我々の接待を優先する。」と話しました。4年後には鈴鹿サ-キットも建設されました。1つの工場が作られれば、そこに根を下し、将来にわたって深い付き合いが生じます。鈴鹿市長が愛知県の市長と同じ接待をしていれば現在の鈴鹿工場はありませんでした。首長の考え方、方針で市は、市民は大きな宝を手にします。サ-キット開催時には全国から、海外からも鈴鹿市に人々がやって来ます。鈴鹿市の経済効果は計り知れないものがあります。2人の市長が取った行動が正反対の結果になりました。同じ事が経営者にも言えます。チャンスを逃さず掴み、相手が何を求めているかを察知する、これが経営者の知恵です。
工場建設から20年後、宗一郎は、鈴鹿市の商工会議所の依頼で講演会に出席しました。ホンダは鈴鹿市と切っても切れない関係になっており、商工会議所のビルの屋上に「HONDA」の看板が揚げられていました。その看板を見た宗一郎は、会頭に「あの看板は取りはずしてもらえんかな。」と言いました。思わぬ発言に、会頭は「喜んでいただけると思ったのですが…」すると今度は宗一郎が深く頭を下げました。「お気持ちは言葉に尽くせんほど嬉しいですよ。しかし、あれを見て色々感じる人もいます。またウチの若い連中が天狗になったり、何も感じなくなったらとんでもないことです。地域社会で企業が威張っているような印象だけは避けたい。やはり、お互いに遠慮をしあうところが人間の付き合い始めであり、終わりなんです。」宗一郎は、かつて質素ながらも的確な対応を見せた鈴鹿市長の姿を思ったのでした。公私混同すること、また人間と人間の間に上下関係を作ることを好まなかった宗一郎の姿勢に、商工会議所のメンバ-は改めて感嘆しました。
宗一郎の語録の中に次の言葉があります。「人間は約束を守らなければならない。約束の中で最も大事なものは時間である。人生の目標達成にはスピ-ドが絶対必要だ。」時間は金と同じです。無駄に金は使いたくない。
やっぱり俺は、宗一郎の生き方が大好きだ。(典)