40周年

 1973年8月20日。(株)専修の前身が産声を上げた日です。今から40年前です。今でもはっきり覚えています。暑い日でした。8月3日にはファンだった吉永小百合さんが電撃結婚をした年でした。10月にはオイルショックでガソリン代が2倍になり、トイレットペ-パ-が店から無くなった年でもありました。独立した時には、オイルショックのインフレが来るとは思いませんでした。旧盆の15日に田舎に帰り、独立を宣言しました。田舎の座敷の真中に座り、2人の兄と父から「お前に何が出来る」「子供達を不幸にするだけ、食べさせていけるのか」「勘当だ」とも言われました。何を言われても私の決心は揺らぐことなく、いくら罵声を浴びせられても涙は出てきませんでした。必ず成功して見せる、3人に「典男あの時は悪かった」と頭を下げさせてやると心に誓いました。心の葛藤でその夜は眠れませんでした。田舎には3泊の予定でしたが1泊で帰りました。車で田舎を出発する時、母親が涙を浮かべていたのをはっきりと覚えています。27歳の暑い夏、裸一貫からの人生の始まりでした。

 当時、各家庭には、カセットテープレコーダーが普及していました。そのレコーダーを使って、算数の家庭学習方法(テ-プとテキスト)の訪問販売を始めました。Dr Coxのインストラクタ-を務めながらの訪問販売です。職員3人を我が家に下宿させていました。70年代は子供の数も多かったし、テープで学習する先駆けでもあったので、それなりの販売利益が出ました。毎日地域を決めて各家庭一軒一軒に「小学生のお子さんはいますか?」と営業活動をしていました。秋頃だったと思います。以前販売をしたご家庭の親御さんに会い「なかなか1人ではテ-プを聞きません。どこかで指導してくれませんか?」との要望がありました。そのお母さんも知り合いを集めてくれて、千葉県柏市のアパ-トの一室を借りました。黒板を使い、塾名「児童館スク-ル」の看板を掲げ、本当の塾が始まりました。実際に教えてみれば、カセットテ-プは邪魔、テキストもテープを基にした編集ですから使いづらい。今のように塾専用のテキストもありません。考えた末に市販されているテキストを買い、当時超高価だったコピ-機を購入して、テキストから生徒にあった問題を切り抜き、コピ-をして生徒の教材にしました。しかし、コピ-の単価は高く、月謝の大部分が消えていきます。共通の問題はオリジナル教材を作り、小学生3年~6年まで指導していました。小学校卒業と同時に中学生も教えて欲しいとの要望で、英語と国語も指導科目にしました。最初の生徒が高校受験する時には、社会・理科も含めて塾名も「進学塾専修学院」と改名し、専修学院が誕生しました。営業地域も柏市(2教室)野田市(2教室)松戸市(7教室)と年に2~3教室開校して行きました。順風満帆の様に思われますが、指導する先生は全てアルバイトの大学生、私は新規の開校準備に奔走、教室を作り生徒募集に成功しても授業を大学生任せでは生徒が退塾してしまいます。資金の枯渇。大貧乏時代に突入しました。母の教育「全ての責任は我にあり」を痛感しました。長女の「私幼稚園に行かなくていいの?」という言葉には胸が詰まりました。行かせるお金が無かったのです。銀行回りをしても、担保物件の無い者はどこでも丁重に断られ、最後の砦、第一勧業銀行松戸支店(現みずほ銀行)だけが私の計画書を理解してくれて、融資に成功しました。松戸市に自社物件の教室・埼玉県の春日部市にも設立して、今までの反省を踏まえて自分も授業を担当しました。サ-ビスが中心で利益はサービスの副産物である事を肝に銘じました。自分の教える生徒は途中退塾させない。成績を上げて目標校に進学させる。楽しい授業をする。努力・集中・真剣を掲げました。

 80年代後半には埼玉にも塾の組合が出来、約120塾が参加し、社団法人も設立。当時あった120塾の中で、今私の知っているのは7塾です。全国の学習塾の数と理髪店の数は同じと言われていますが、どちらも生まれては消えていく業界です。40年の歴史が刻めるのは全体の5%未満です。会社は何時も2つの道の選択です。継続!か倒産!です。継続の為には絶えず改革です。会社も業界団体でも改革を提案すると必ず抵抗勢力が正論と理想論で向かって来ます。その多くは保身、アイデアの出ない能力を隠すためです。創業50周年60周年を迎える為にも勇気を持って「もの申す社員」を目指して下さい。
 埼玉県内で1週間に9法人が誕生して、8法人が消えています。これも現実です。(典)