伊勢商人

 20年ごとに神殿を建て替える伊勢神宮の式年遷宮が10月に行われ、三重県内は観光客で大賑わいをしています。庶民が神宮にお参りする習慣ができたのは江戸時代です。士農工商の身分制度が出来、農民の息抜きとして農閑期に神宮(お蔭参り)や、当時信仰の対象とされていた富士山(浅間神社)への「参詣・巡礼」を幕府は認めました。参勤交代にあわせて街道の整備が進み、江戸から伊勢までは片道15日間、大阪からは5日間、名古屋からは3日間、岩手の釜石からは100日間かかりました。江戸時代も東海道がいかに整備されていたかが分かります。旅費の工面も一大事で、仲間で旅費を積み立て、くじで選ばれた人が順番で参詣する、伊勢講や富士講があり、選ばれなかったメンバ-も「代参」と言って、講の代表が参詣することで御利益があったと信じられていました。今と違い隣近所の信頼と付き合いがあったようです。

 日本には古くから、三大商人が有名です。大阪の堺を中心とした大阪商人。大阪商人は、戦国時代の鉄砲の取引でも推測できるように、新しい物の商売が得意で現金立ての取引が多く、船場では「始末・才覚・算用」がありました。始末は始まりと終わりのけじめをつけること。才覚を発揮し、算用は勘定を合わせ、利益より信用を重くみるものでした。のちの大阪商売となり、今でもサ-ビス業の先駆者として、特に風俗は殆どが大阪発です。

 近江商人は三方よしで知られています「売り手よし・買い手よし・世間よし」売り手、買い手、そして消費者が喜ぶものを提供しなさいといった考えです。品薄でも暴利を取らず商売を長く続けることを教えていました。近江商人はがめつく、仲間意識が強かったようです。それが今の名古屋商売に繋がっています。名古屋では新規の得意先を開拓するのは非常に難しく、飛び込みセ-ルスでも、話は聞いてくれますが、取引までは中々結びつきません。

 三大商人の最期が伊勢商人です。伊勢商人は手堅くアイデアで商売をしていました。伊勢商人が三大商人の中に入っているのは、神宮との関係が大きいのです。神宮に行くには地形的に松阪を通らないと参詣できません。伊勢の手前の松阪は各方面からの旅人で大層賑わいました。遠くの地方から来る人は3~4ヶ月かかり、季節も身に着けている服も変わります。また、地方によって食べ物、着るもの、風習が異なります。松阪では各地の物が手に入ります。そして、アイデアを持った商人たちが江戸に出て大きな店を開きました。当時江戸では反物を武家や豪商の家に出向いて注文を取り、仕立てて、集金は盆暮の2回でした。伊勢商人は店頭販売を中心に、松阪で仕入れた古着を全て現金商売しました。元々高級木綿の産地でもあり、高級木綿も店頭で多くの柄を選んで貰いました。松阪で各地の物を集めて、人口の多い江戸で、店頭で現金で売る。今までの江戸商売を変えていきました。「江戸に多きもの伊勢屋、稲荷に犬の糞」という俗語さえ流行しました。

 伊勢商人のアイデアは庶民の生活にも大きな影響を与えていました。江戸は火事が多かったため、庶民の住む長屋は、火事が多いなら安普請で良いと、隣とは薄い板一枚で区切られ壁の無い長屋でした。井戸トイレは共同で一ヶ所にあり、糞尿は農家に肥料として売っていました。「草加越谷千住の先さ」と現在の千住、葛飾区、埼玉県まで川を利用して、肥料と野菜を交換する商売もありました。伊勢商人は、木綿呉服の他に、紙、油、金融業、両替業と東京商売の基礎を築きあげました。手堅く、アイデアで現在の商売と関連した分野に進出していくやり方が伊勢商人です。江戸に出店した伊勢商人の代表は三井高利氏です。彼は江戸で「越後屋」(現三越)を創業しました。三井系、三越系、松坂屋、国分、と伊勢商人は「東京商売」に大きな影響を与えました。「近江商人はがめつく、伊勢商人は貧乏な乞食の様に出納にうるさい。」と言われ、伊勢商人の丁稚から独立した奉公人は、「右ポケットは仕入れのお金、左ポケットには売上金、差額が儲け」と教えられます。たえずポケットで確認する事も出納です。基本には現金で商売できる信用と高品質がありました。我が社も「伊勢商人」が看板です。看板に恥じないスキルを磨き、結果を出しましょう。(典)