えにしの糸

 「えにしの糸」とは不思議なものです。今年日本代表「侍ジャパン」の新監督になった稲葉篤紀さんと、元監督の野村克也さんとの出会いです。稲葉さんは、法政大学野球部時代、有名な選手ではありませんでした。故障も多いし、4年間でホ-ムランも6本と、六大学の野球部員としては決して多くありません。野村氏は、息子の克則さんが明大の野球部だったので、法政対明治のリ-グ戦をたまたま観戦していました。稲葉さんはこの試合で、大学通算6本の内2本を打ったのです。当時、ヤクルトの監督をしていた野村氏は2本のホ-ムランを見てスカウトに「ドラフトで稲葉を指名せよ」と話しました。しかし、大学時代、打率も本塁打数も平凡な成績に、スカウトメンバ-は、何度も何度もプロで通用するか分析に入りました。スカウト陣の結論は「プロでは無理でしょう」でした。野村氏はスカウトの猛反対を押し切り、稲葉氏をドラフト3位で指名しました。稲葉氏の大学時代の成績から競合相手もいなく、稲葉さんはヤクルトの一員になり、その後、2167安打達成の名選手に育ったのです。野村氏の見る目、稲葉氏の努力もあったと思いますが、法政対明治の試合に遭遇していなければ、野村氏が「たまたま」試合を観戦していなければ、侍ジャパンの監督は稲葉さんではなかったと言っても過言ではありません。

 野村監督も、何かの糸で導かれています。野村氏は京都の生まれで、貧しい家庭で育ちました。貧乏から抜け出すのに、歌手になろうと思いコ-ラス部に入ったり、俳優になろうと映画館通いをしたりしました。そして、中学2年の時に野球部に入部し、注目されるようになりました。中学卒業後は働くように母親から言われますが、兄が大学進学を諦める代わりに高校に進学して野球部に入部しました。しかし、決して強い高校ではありませんでした。野村氏は高校では全く無名の選手でしたが、野球部の監督がプロ球団の監督に推薦状を送り、1954年当時の南海にテスト生として入団しました。1年目は9試合に出場しますが無安打で、戦力外通知を受ける寸前に、正捕手が事故で捕手不足になり残留、3年後には1軍に推薦され定着します。打撃不振に陥った際「バッティングの科学」の本で「投手は球種によりモ-ションに癖を見せる」という言葉に出会います。本は何度も熟読し、癖を研究してノ-トに書きとめ、結果、打撃力が格段にアップしました。当時、癖が少なく、なかなか攻略できなかった稲尾和久投手には16ミリカメラで撮影して研究、ID野球の基礎を作り、本塁打王をはじめ数多くのタイトルを取得しました。もし、お母さんの指示通り高校に行っていなければ、監督がプロ野球に推薦状を送っていなければ、正捕手が事故にあっていなければ、バッティングの科学の本で投手の癖の言葉に出会っていなければ・・・。

 「たら・れば」の話ではありません。私は「えにしの糸」の話をしたいのです。「えにしの糸」を調べてみると、人間と人間の繋がりで、特に運命というか、見えないものによって結ばれているもの、とあります。皆さんも今の自分に成った、タ-ニングポイントが必ずあります。えにしの糸で結ばれた人が必ずいます。私にも、えにしの糸で結ばれた友人がいます。大学2年の時でした。物理化学の単位が取得できず追試になり、たまたま試験会場の隣に座った友人がいます。科目は忘れましたが、もう1科目の追試でも同じように隣の席に座りました。彼と私を含め4人組が出来ました。卒業後、忙しい時期は年1回の旅行、定年になった10年前からは年2回の旅行に行っています。両親よりも長い付き合いです。彼らから何度、力を貰ったことか!彼らは私の財産、宝です。

 今の職業になったのも、Dr Coxに街で出合った事がきっかけです。半信半疑でセミナ-に参加しましたが、そのおかげで会社の礎を築く事ができました。Cox氏との小さな接点が大きな結果をもたらしてくれました。

 えにしの糸は真正面から自分を目掛けて飛んでくるものではありません。自分から出かけて行って、行動した時に神様がくれる褒美のプレゼントなのです。出かけましょう。(典)

フォローする