時の人

 NHK朝ドラ「花子とアン」が高い視聴率に支えられ、9月の末で終了しようとしています。明治・大正・昭和の時代を舞台にドラマが展開されています。ドラマの中では炭坑王として嘉納伝助が登場します。彼は実在した人物で、本名は「伊藤伝右衛門」といいます。ドラマ同様に豪快な人物だったようです。無学ながら、炭坑王として、衆議院議員を2期務めるまでに至った伝右衛門さんに、同じ性の伊藤として興味が湧き、伊藤のルーツと伝右衛門さんについて調べてみました。

 伊藤は藤原系苗字の代表格で、藤原北家、藤原公清のひ孫の基景が伊勢に住み「伊勢の藤原」を意味する「伊藤」を名乗ったことが始まりです。伊藤は伊勢平家の家臣として活躍し、源平合戦で奮戦しましたが、平家滅亡後、伊勢から各地に広がり戦国時代の家臣となりました。伝右衛門さんの生まれた筑前の国の伊藤は、壇ノ浦の戦いの落人だったようです。伊藤の苗字は三重県が一番多く、二番目は岐阜県、最も少ないのが沖縄県です。お盆も過ぎ、秋の夜長、自分の苗字のル-ツを探ってみてはどうでしょう。

 伊藤伝右衛門は1860年、筑前の国(現福岡県飯塚市)に目明かし(岡っ引き)の子として生まれました。父親は目明かしの親分として大勢の子分を養わなければならなくて、暮らしは貧しく、幼い伝右衛門は寺子屋にも行けませんでした。8歳の時に母を亡くし、10歳で呉服屋に丁稚奉公に入りました。父親は、頼母子講で資金を集め「魚の問屋」と露天掘りを始めます。伝右衛門も魚の行商や、石炭を運ぶ船頭として働きました。18歳の時西南戦争に加わり、戦争が終わると、また船頭に戻りました。日清戦争で軍備増強のため、八幡製鉄所が建設されると、鉄の精錬に必要な石炭は、彼らの炭坑から、八幡製鉄所と、当時破竹の勢いで伸びていた商社安川商店に納められました。

 伝右衛門は40歳で家督を継いで独り立ちしました。同時に炭坑諸機械を製造する会社も創立しました。42歳になった伝右衛門は嘉穂銀行の取締役に就任し(後に頭取になる)、44歳で衆議院議員に出馬して当選、2期務めます。炭坑には大きな資金が必要だったので、銀行の取締役となり、国策を知るために代議士になりました。

 彼の最大の賭けは牟田炭坑の採掘でした。当時牟田炭坑は見込みも無く、坑夫も喧嘩や殺人など悪評が高く、さらに大断層にぶつかっており、切り抜いても目的の炭層が出るか分からない状態でした。伝右衛門は炭坑の改革に取り組み、納屋頭(掘方の長)や坑夫の抵抗を治め、大断層を切り抜けると、良質の炭層が表れました。時は日露戦争であり、良質の石炭は飛ぶように売れて、伊藤家の基礎となる巨万の富を生み出しました。そして次から次に炭坑を買い取りました。炭坑の先輩であった貝島太助や麻生太吉が反対する炭坑まで手を伸ばして、赤字の炭坑も黒字にし、今までと異なる炭坑の合理化に尽力しました。47歳の時、勲四等旭日章受章。筑豊炭坑五指に入る「炭坑王」となりました。51歳で妻ハルが亡くなり、52歳の時、柳原義光伯爵の妹、折原燁子(折原白蓮)と再婚しました。

 大正に入り、第一次世界大戦が勃発し、大戦景気に押し上げられて石炭界も好景気になる反面、増産、増産で炭鉱事故が多発しました。1930年の世界恐慌で大打撃を受けましたが、戦争になると軍備増強で活気を取りもどしました。

 文化面では、現福岡県立嘉穂東高校の前身を作り、地区の学校の体育館も寄付、伊藤育英会を設立して多くの人材を育てました。伊藤八郎(養子)の回想によれば、伝右衛門には抜群の記憶力があり、メモをしなくてもすべて頭の中に記されており、慎重な判断をする実務肌の人だったそうです。「学校に行かずとも、生活の糧を得る日常そのものが日々学問であり、その点でも燁子の文学の世界など到底理解できない事であろう」と語っています。昭和22年12月15日死去(享年86)

 伊藤伝右衛門は、石炭ドリ-ムを叶えた、明治・大正・昭和時代の寵児でした。(典)

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